◎生々相伝。生きた働きのある合楽の神様に向かう者も生き生きとした信心をぶつけなければならぬ。信心の位は頂かんなりに年寄りになりよる。%V
%1秋山さんの若年寄り
%2矢次さんの若年寄り
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昭和四十三年二月十七日 朝の御理解


X御理解第五十五節 「賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年ありがとうなってくる。」


 いつも頂きます御理解。「信心をすれば一年一年有難うなってくる」と言う。これは御理解の一節でございます。信心すれば一年一年有難うなってくる。これは一番最後のところであって、だいたい、その御理解は、こういうような御理解ですけれども。かって頂いたことがなかったですね。御理解第五十五節、賃を取ってする仕事は、賃金の賃ですね。若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。

 信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。それから信心をすれば一年一年有難うなってくると言うのである。ここんところが、やはり大事ですね。信心をすれば一年一年、誰しも信心をしょれば位が付くものか。これは信心の位ですね。ここでおっしゃっておられるのは。年を取りさえすれば位が付くというのじゃない。信心は年が寄るほど位が付く。そんなら信心しとりさえすれば、位が付くかと言うとそうではない。信心しておれば、「一年一年有難うなってくる」とおっしゃるけれども、そういう信心では有難うなってこない。

 %Uそこで、この御理解で問題になる所は、一番初めのところなのです。賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んではくれぬ。この辺が、今迄は分からなかったのですけれども。今日は、少し分かりかけてきた様な気がする。

 一番最後の、一年一年有難うなってくる。ところが、自分は十年も信心しておるのに、さほどに有難うなっていきよるとも思われない。信心の事が巧者にはなっておるけれども、有難うなってこない。これはおかしいぞと。そこで、どこに≪真が≫あれば、有難うなってくるのかと言う様な事に、焦点を置かなければならんと言う。その御理解を頂く訳ですけれどもね。

 それ前に、そういう説明がついておる。一年一年ありがとうなってくる。または、ここんところも私は初めてですねえ。信心をすれば、「信心は年が寄る程位が付くものじゃ」とこうおっしゃる。信心は年が寄る程、これは勿論、信心の年です。ね。信心が十年すりゃ、十年だけの位が付く。 二十年すりゃ、二十年だけの位が付く。位が付きゃあ、大体有難うならなきゃならない事になっておるんだけれど。

 信心の年限は経っても、位も付かなければ、言うなら、有難うもなっていかない。それは、賃を取ってする仕事は、若い時は頼んでもくれるが、年を取っては頼んでくれぬという。この辺のところが、あるようですね。信心の若い時、まあ言うなら、信心が有難いと分かりかけた時。だから、そういう若い時が大事なんです。

 %1昨日、北野の秋山さんから、「明日の朝、お参りさせてもらいたい」とお届けがあったんです。ある特別なおかげを受けなければならない事情が出来たんです。それで、これは今迄のような信心じゃいけない。「朝お参りさせて頂いたら、夜の御祈念にもお引き寄せ頂きたい」と言う、昨日、お届けがあったんですね。

 %1「あゝ、結構です」。やはり、はずまにゃいけません。確かに、私がお知らせ頂いたのは、あちらには申しませんでしたけれども、Z『米を頂いた』。これはやはり、「熱をかけなければまゝにならん」と思うておるところへ、そういう様なお届けであった。「はぁ、そういう熱をかけりゃあおかげになるなあ」と私が思ったんですよ。

 %1だから、「そら結構ですね」と、こういう事です。ところで、後がいけん。先生、実は、今日は矢次さん所の宅祭りでございます。夫婦であちらへおかげ頂かんならん。で、今晩は矢次さん所で御祈念させて頂きます。これじゃ、ひとつも熱にゃあならんのだなあ。これは、そんな事願っても願わんでも。矢次さんの所へは、信心の友達として、お付合として、当然、これは夫婦で必ず行くのです。

 %1「それじゃ、ひとつも熱にならんな」と思ったけれども。まあ、ここで言うたってはじまらんと思うて。神様にせっかく熱を出しかかっておる熱が、一番初めからそんな事じゃいけないと思って、私は、この事を改めて、お願いさしてもらって。昨夜、あちらのお祭りが済んでから、    に帰ってまいりましたら。皆さん、あちらへ参拝のおかげ頂いておった人達が、又、こちらへ御礼へ出て見えられた中に、秋山さんも入っておられた。

 %1おかげ頂いたな。関さんの車に乗せて頂く事になった。ところが関さんは、昨日、御礼が出来てなかったから、「私は合楽に御礼に出ますから」と言う事であったらしいんです。ですから、どうでもやはり、御礼に出てこなければいけないと言う事になった。これなんかは、「神様が、こう本人の心の中に、もうおかげを下さろう」と言う、おかげを差し向けて下さっておるものを感じますね。

 %1もうしかも、それは見易う見易うそうさせられる。本人が一心発起した。今日から、夜の御祈念にもおかげ頂こうと、この事の特別のお願いをしなければならないからと言うのであるから。その心を神様が、もう受けようとしておられる。そういう働きが。昨夜も、その事を申しました。

 %1今日は、よんどころなしにお参りでけんはずのが。関さんのおかげでお参りが出来た。実はあんたは、今朝から、あんな事を言っておったけれども、その事を願っておったんだと言う事を申しました中にです。「そういう神様のおかげを頂きたい。おかげを受けさせたい」と言う働きが、見易う働きかけておられますですね。

 %2一昨日、昨日の晩でした。あの大雪でなにもかもが、水も出ませんし。電気もつきませんしね。もう、少し早めに、いつも十一時迄お広前、皆さんが奉仕しておりますけれども。今日は、早く電気もつかん事だから、お参りの方達は早く帰ってもらって、早く休ませて頂こうと言うので。コタツの間に入って、私は、最後のお茶を頂きながら、しておるところへ。末永さんが「もう、十一時過ぎましたでしょう。今、矢次さんから電話がかかってきた」とこう言う。

 %2「十六日の宅祭りを一日、二日延して頂く訳には、いけんだろうか」と言うのである。丁度御井町辺りでは、もう二日間水道も出ない。電気もつかないという、ふれが回ったんもんですね。だもんですから、電気もつかない水もでらないなら。準備も出来ませんからね。そこで、そういう電話になった訳なんです。

 %2それで、私は申しました。「電気がつかんでん、水がでらんでん良か、お祭りはでける。ロ-ソクで、でも出来る。だからやっぱり、十六日にお願いしてあるから、十六日にする」と返事しなさい。それで、すぐ返事をしました。先生はさっき、十六にすると言いなさると言う事で、「まあ、そんなら電気の用意も、明かりの用意もせなきゃあならん」と言う事であったろうと思います。

 %2けれども、それから、そうですね。五分ばっかりしたら電気がつきました。はあ、おかげ頂いた。これなんかもそうですねえ。やはりひとつの、信心は信念を頂くというか、神様を信ずる力をいよいよ強めていく稽古なのですからね。

 %2私が人間心を使うてから、それもそうたいなあと。そんなら二日ばっかり延そうかなあと、「二日間もつかん」と言う、回覧板が回るぐらいですから。そらなるほど、困ろうから、「二日間延そうか」と言うた後に電気がついた。やっぱ、明日して下さい。これではひとつも、ほんとの、いわゆる信念運動と言うか、そういう信念を養わして頂く働きにはなんにもならないね。

 %2%Vやっぱり、親先生のおっしゃる通りさして頂いときゃ、間違いないなあという。そういう一生懸命の思いと、そういう神様の働きとを感じるところに、宅祭りのひとつの盛り上がりというのが、出来てくるんですね。これは矢次さんにしろ、秋山さんにしろ、まぁだ、信心の若い間だから、神様がこういう様な働きを見せて下さるんです。

 %2%V信心に若さをなくしましたらね、もう、そういう事はない。そんなら二日延そうと言う事になるであろう。秋山さんが、今晩から、お参りすると言うてあってもです。ほんとに、明くる日からの、お参りになる事であろう。そういう事にしかなってこないだろう。

 %V若い時には、神様がそういう働きかけをして下さるんです。そういう意味合いに於ては、なべて合楽の信奉者の上には、そういう、ひとつの若さを感じます。今の、この若い時にです。「賃を取ってする仕事を、本気でさしてもらわにゃならん時ではなかろうか」とこう思う。

 %Vそして、ほんとは、働く事によっての、やはり賃金というかねえ。その代償と言うものを、頂かしてもらえるおかげを、今こそ頂いておかねばならん時ではなかろうか。信心が分かったか分からんか。分からないようにして年を取っていったんでは、もう人が頼んでもくれない様に。

 %Vもう神様がね、そういう生き生きした働きすらもなくなってくるのです。これは、皆さん、そんなら、この合楽の信奉者の中にもですね。そういう例えば、枯れかかった方達の信心の上にはですね。そういう働きが段々なくなってまいります。

 %Vいわゆる、信心の若々しさという時にです。本気で神様のお使い廻しを頂かしてもらえる信心。そこから神様の働きを、本当に把握さしてもらうと言う信心。「神は信ずる者を信ずる」とおゝせられる。ですから、神様を信じなかったら、神様からも信じられない事になる。

 %Vそういう事で年を取っていったんじゃあ、もう頼み手もなくなるようにですね。私共がせっかく信心をですね。意気込んでおる時、信心が若々しい若やいでおる時。そういう時には、必ず信が生まれる。必ず神様を身近かに感じさして頂く様なおかげを、ここに見せて下さる。そこに、「神様の間違いなさ」と言うものをです。

 %Vいわゆる、積み上げた上にも積み上げさして頂いて行くから。そういう、信心がひとつの基礎になるから。信心をしていけば、段々位がつくとおっしゃるのは。信心の「信の力」と言うか、そういう、「お徳がついていく」と言う事なんだ。位がついていく。

 %Uだから、信心すれば、一年、一年有難うなってくるという事になるのである。私は、ここんところを今迄、自分に全然分からなかった。どうして、ここんところの御理解が、最後のところとなんかちぐはぐな感じであった。

 %U只、普通、年を取りさえすれば、「人間は位がつく」と言う風な感じであった ところが。今日はっきり、頂かしてもらうと、「信心は」と書いてある。「信心は年が寄る程位がつくものじゃ」と書いてある。「それで賃を取ってする仕事は」と言うのは、たとえである。

 %U日傭取りなら日傭取りと言うのを、もうおじいさんおばあさんを傭うても、仕方がないから傭い手がない。若い時でなからにゃあ、傭はない。その傭われてこそ、初めてそこに賃がもらえるのである。 これは、「信心の若い時」と言う事だと思う。同時に、たとえでもある。

 私はどうでもですね。ここのところに、躍動的なものの感じられる信心にならなにゃあ駄目だ。信心の若々しい時に、そん時に、例えば熱烈な修行の心も起こってくるだろう。日参り夜参りも。例えば、秋山さんの場合でも、矢次さんの場合でも、ちょっと位を頂かんなりに、年を寄りかけておる様な感じがする。

 それを神様が、年を寄らしちゃあならんと言う働き掛けが、なんか、そこに目の前に見る様に、鮮やかに感じられるでしょうが。 とても考えて見てごらんなさい。こういう特別な願いをせにゃならんのに、今日は、矢次さんのところにお参りを致しますから。今晩から、朝だけじゃあない。晩の御祈念にもお参りする。その口の下からです。今晩は、矢次さん方にお参りを致しますから、あちらで御祈念させて頂きます。

 おかしな話である。親先生が、「こうと決められたら、絶対動く人じゃあない」。それは、例えば、電気はつかんでも、水道がでなくても、十六日には、どうぞ万事にお繰り合わせを頂いてあるのでございますから、お繰り合わせを下さいませと。どうぞ電気はつかんでも、水道は使われんでも、そこんところの万事万端のお繰り合わせを頂かせて下さい。「十六日は、どうぞよろしゅうお願いします」と言う様なです。信心にならせて頂いたら、神様がなんぼでも御用さしてくださる。

 そこには、賃と言う交換条件ですかね。その働く代償に対するところの賃がもらえる。もう、そこに若年寄りのごたる風になっていきよるところを、神様が「ポッ」と、こう刺激を与えて下さる。そこがです。私は、生きた働き、生きたお広前の働きのあっておるところでないならば。もう絶対、矢次さんところのお祭りは、二日間、三日間延びたに違いないです。

 そういう生きた働きのあってないところであったら。おそらく、秋山さんは、今晩からしか参ってこんに違いはない。もう一番初めから落第、これでは。昨夜も、私、あちらへ参りましたら。一番下に、あのお花が入れてある。御神前にお供えしてあるのに、Zシダが一杯使ってある。しかもそれは、真っ白く塗ったシダであった。もう御理解で言うなら、いよいよ、「いかん」と言う御理解ですよね。これは。シダが、しかも真っ白になっているんですものね。着色してある。もう五、六年も前だったでしょうか。熱心に参って来とった人が、ぴしゃっと止めてしまってから、一年ばっかり疎遠になった。どうしょうるじゃろうかと。ところが、〇〇教会に、「お参りしておる」と言う事であった。

 さあ、ところが、どうにも出来ない問題が出来た。とにかく敷居は高いけれども。当時の椛目の親先生に、お伺いでもさせて頂いてから事を決めようと言う事で参ってきた。そん時私は、守部の高山さんの所の宅祭りで、出て行くために用意しとったのだけれども。もう、出ていかんならんとでした。

 けれども、どうしても、立つ気になれないんですよ。そしたら、矢次さんが参ってきた。いゃあ珍しゅう。実は先生、敷居は高かったけれども、「こう、こう」と言う。神様にお願いさせて頂いたらですね。『不毛の地に、いかに種を蒔いても駄目だ』と言う御理解でした。「不毛の地」と言うのがありますよね。いくら種を蒔いても、生(お)えないと言う所なんです。

 〈いわゆる〉、私が申します。生きた働き、いわば、賃を取ってする仕事のでけない。そういう働きのできない教会に、いかに種を蒔いたって駄目だという事。これはもう、極端な例ですけれどもね。「他の事を悪口」言うようですけれどもです。御理解が、そうだったですから申しておりますけども。

 もう動きのない、働きのない、例えば、お広前で、どんなに素晴らしい良い信心をしてもですね。たいしてうだつはあがらん。それこそ不毛の地に種を蒔いておるようなものなんだ。

 けれどもです。例えば、生きた働き。今、合楽のお広前は、私は、本当にお互いが生き生きとした。只今、頂きますような信心さえしてもらえばです。生きた働きがあるからこそ、矢次さんの場合だって、秋山さんの場合だって、失敗させんで済めれるだけの、ここに「何ものかがある」と言う事が分かるでしょうが。

 けれども、そんなら、蒔かしてもらう種自体がです、しいらであったり、空であったんでは。これは、いかにこれが不毛の地じゃない、本当に豊穣の地であっに致しましてもです、生えません。

 %Vだから、生きたものと生きたものとの、出会いでなからなければいけん。いわゆる、[生生相伝]である。生生とは生まれる生まれる。相伝とは相い伝える。生きたものと生きたものとの、ここで火花を散らすような信心になってこなければ、ですねえ。おかげにならんのです。お互いの心がです。

 例えば、秋山さんじゃないけど、あゝして毎日、日参でも出来、修行でも出来ておってもです。いつの間にか心が、そういう風に「楽な方」と言うか、柔い方に。そういうところから、「生きたものの色彩」と言うものが欠けてくる。

 だから、これはおかげが受けられないと言うお知らせではなくて、過去、こういう信心をたどってきてと言う事であると言うて、昨日、私は説きました。矢次さん方では。そして現在、本当にあちらに今度移転しましてから、初めてお祭りを奉仕させて頂いたんです。けれども、おかげ受けておりますですねえ。もう本当に、おかげ受けておるです。それを隅々に感じるです。

 もう本当に、小さい家でしたねえ、久留米の時代は。又、御井町の方へ移ってまいりましてからでも、住宅でしたから、お店なんか出来る様な店じゃなかったんですけれどもね。あゝいう通りに、あゝいう大きな家に、本当に、これは醤油屋さんには勿体なかばい。どうでんこうでん、いっちょう、「醤油屋さんから、酒屋さんになりなさい」と言うて、昨日は申してきた事でございます。

 %Eだいたいが、あの人は酒屋の番頭さんだったです。私共と一緒に酒屋友達だったです。あちらは東判光屋の番頭さん。私は荘島の判光屋の番頭しとりました時分に、番頭友達でした。ですから、どうでも、あの人は酒屋を継ぐ事が、願いなんですけれども。なかなか、ところが、今迄の所では、酒屋は出来ません。今度の家ならでけると、まあ、私はあるひとつのヒントを与えてきたんですけれども。ねえ。

 いわゆる、シダから、言うなら不毛の地の、まあ言うなら、お広前からですかねえ。「生きた豊穣の地」と言うと、あれですけど。言わな、わかりませんから、豊穣の地の合楽の地に、いかにも合楽ばっかり、良かごと言いよるですけれどもね。けれども、事実、そういう働きがあっておる事だけは間違いないのです。ね。

 その代わりに、もう、雑草もあっという間に生えますよ。皆さんが、信心をちょっと御無礼致しますとねえ。もう、それこそ、自分の心の中には、赤が白に見えるごとなってきますよ。昨日も、久しぶりに参ってきたある方がございましたがね。もう本当に、しばらく、どうでしょうか。一、二ヶ月御無礼している間に、こんなにも信心が変わり果てるだろうかと言うごと、変わっとります。

 もう、どういう事かと言うと、雑草が、もう一杯生えている様な感じです。これから雑草取りに骨が折れる。それは、これが豊穣の地だからこそ、雑草も生えるのです。油断しとるから、そこんところをひとつ皆さんが、分けて分からしてもろうて、信心に油断しちゃあならんて。

 信ずる力が弱いものにいよいよなってしまう。これではですね、神様が生きた働きを働きかけて下さる事ができない。ですから、ここんところをですね。雑草を取り除く事に一生懸命なら、生き生きした喜びの種を一生懸命蒔かしてもろうて。その喜びの種がです。肌に、身になっていくという信心。そういう信心をさして頂いて初めて、年を取ってくれば信心を。

 もう一遍、読んでみましょう。賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。ね。信心は年が寄るほど位がつくものじゃ。ね。信心をすれば一年、一年ありがとうなってくる。こういう信心を基礎にしなければ、なる程、一年、一年有難うなってくると言う事はないと言う事。

 ところが、お道の信心の中に、何十年信心して、もう良いおじいさん、良いおばあさんになってです。一年、一年有難うなっておると言う人が、どれだけあるか。生きた所に種を蒔いておらんから、そういう事になる。

 雑草を取る事に精進していないから、そういう事になる。どうでも、一年、一年有難うなっていくと言う信心を目指さしてもらい。年を取るに従って、位がつく様な信心をです、さして頂くために。生き生きとした信心を、さしてもらわなきゃいけないと言う事が分かります。どうぞ。